06/24/19-06/30/19

 火曜日に講義。それから引き続き28人分の中間レポート採点と内容に踏み込んだコメントを書くという作業を行った。昨年度の反省(コメントを別紙にワードで作成していたら一人当たりの字数が平均で1,000字を越えてしまった)を生かして、紙に出力したレポートの余白に書ける範囲で手書きでコメントするというやり方を採用したのだが、確かにこちらのほうが細かい赤入れと総評的なコメントの対応が目で見てわかりやすく、字数も一定程度に収まるというメリットを実感しつつも、右腕を酷使した結果として肩が痛くなるという副産物に悩まされて困った。

 肩の痛みの余波を受けて論文執筆は引き続き低調に終わる。

 しかし前々から予定を入れていた内輪の検討会の当日である土曜の朝になってからようやく気合を入れ直し、一時間くらいで今まで書いていたメモをつなぎ合わせて一応頭からお尻まで読める状態にして持って行く。本来的にはこういう作業を最初にやって大枠を作っておいてから、細部の調整に向かうべきだと思うのだが、いつも締切の直前になるまでアウトプットのクオリティについてのハードルをなかなか下げることが出来ずに結果的に作業に手を付けられない、という悪循環に陥りがちなところは反省点である。しかし毎回わかっていてもなかなか改善するのは難しい……。

 検討会での議論は(久々に他人と研究の話をしたこともあって)大変面白かった。やはり定期的に本業の研究について話す時間を取るべきなのだろう。あと、他人の研究計画や草稿についてコメントするという活動が、やはり私はそれ自体としてけっこう好きである。

 そこでの議論に触発されて、久々に歴史的研究と現在の問題に対する規範的提言の関係について考えるところがあったので、イアン・ハッキングの「哲学者のための2種類の『新しい歴史主義』」論文を久々に再訪していた。歴史的研究をやる上で論者の規範的関心と歴史的分析をどのように折り合いをつけるかということは難しい問題であって、ハッキングのこの論文はこうした議論に関係しているのが、おそらくここで彼は少なくともその一つのやり方を明確に否定している。

問題がどこから出てきているのかを理解すれば、それによってその問題は消え失せてしまう、という素晴らしいアイディアがある。これをヘーゲル的と呼ぶのは正しい。また、この考え方は、フロイトウィトゲンシュタインの中にも同じように見いだすことができる。『狂気の歴史』やその他の初期の著作におけるフーコーからも、このような考えは、単なる雰囲気以上のものとして見てとれる。私は、このアイディアはまったくの間違いだと考えている。自分が理解しているところでは、例えば偶然や虐待についての私の研究は、自由意志の問題や、国と親と子供のそれぞれが持つ権利についての問題を解決しようとするものではない。私は決して、核心にまで達したらその問題は消えうせるはずだなどという馬鹿げた独善的な考え方はしない。私にできるのは、これまではそこに何か問題があることが分かっていたようなことについて、なぜそれらの事柄に問題があるのかを示すことだけである(Hacking 2002=2012: 160)。

 この議論は、しばしば「現在に対する他の可能性を求めて歴史的研究を行う」式のレディメイドな議論に訴える歴史社会学者に対する痛烈な批判になっていると思われるが、かといって現在の歴史についての探求がなんらかの意味での現在の問題をよりよく把握すること(そして場合によってはその状況を改善すること)につながりうるということをハッキングは決して否定していないと思われる(もし彼がそうしたつながりを単に否定しているのだとしたら、同じ論文のなかでシェイファーとシェイピンの仕事について肯定的に言及しながら「こうした歴史記述は、その対象が一九七〇年代であれ一六五〇年代であれ、過去についての単なる好奇心から出てくるようなものではない。彼らが意図していたのは、われわれがいま直面しているこの現実や、われわれが現在行っている推論法、それに、現在の我々の研究様式について、何ごとかを示すことである」(Hacking 2002=2012: 150)とは決して書かなかっただろうし、そもそも児童虐待や多重人格といった概念をめぐる一連の「現在の歴史を書く」というプロジェクトもありえなかっただろう)。ではそうした繋がりは、一体どのような書き方を採用したときに最もうまく示すことができるのだろうか、というのが次に我々が取り組むべき問い(というか課題)となるだろう。

知の歴史学

知の歴史学

 この点以外にも「哲学的分析とは、概念の分析である。概念とは、然るべき場所に位置付けられた語のことである」(Hacking 2002=2012: 155)という断言などについて、改めて考えさせられるところが多かったと記しておく。

 しかしこれでようやくHistory & Ethnomethodology Blogっぽくなってきたな。

06/17/19-06/23/19

 先週分の日記に書いた通り、休講でできた時間を使って引き続き書評論文の執筆に取り組むも不調に終わる。それとは別に木曜日にレポートを28人分まずは形式的なところだけチェックして返却した。形式的なチェックだけならそれほどの負担でもないですね。

 ところで最近身の回りの人と話したり、Twitterの議論を追いかけたりしていて、「他のものの権利を勝手に代弁してはならない」とか「命の選別を行ってはならない」というような、人間に関して適用するならば極めて真っ当な倫理規範を信奉する(尊敬すべき)人たちが、なぜかそうした倫理を掲げることで菜食を批判することがあるのはなぜなのだろうかということについてちょっと考えていた。確かにヴィーガンは動物の権利を勝手に代弁しているように見えるし、また「植物を食べることはよいけれど動物を食べることはよくない」という形で命の選別を行っているように見える、というのはわからないでもない。
 しかしながら、よくよく考えてみるならば「他のものの権利を勝手に代弁してはならない」という規範は「権利について語る手段を持たないものの権利については一切考慮しなくてよい」ということを含意していないし、また後者の「命の選別を行ってはならない」という規範に関しては、非菜食者が動物を食べるときであっても、人間を相手には決してしないようなことを動物に対してもよいと前提することによってはじめてそうしたことは可能になっているということを思い返すならば、厳密には守ることが不可能な規範であると言える*1。したがって、非菜食者がしばしば言及するこれらの二つの規範は、実は「動物を食べる」ことと無関係であるか、さもなくばまさに「動物を食べること」と抵触するような規範であったりするのである。

 そのように考えると(以下は飛躍を含んだ想像だが)こうした二つの規範を挙げる人たちは、実は何らかの規範的原理を挙げることで動物を食べることを正当化しているというよりも――というのはもしもそうだとするならば以上に述べたようにそうした議論はいずれもあまりにも容易に反駁できてしまうように見えるので――むしろ何かを食べるということを道徳的反省の下に捉えるということそのものを拒否しているのではないかと最近は考えるようになった*2
 そしてもしもそうであるとするならば①食べることそのものを道徳的行為として捉える②その時我々が用いることになる規範は人種差別・性差別・障害者の権利・中絶といった様々なトピックにおいて我々が依拠している規範と(議論の持って行き方にいくつかのやり方があるにせよ)かなり広範な一致を示していることを知る、という二つのステップを踏みさえすれば、特に上で挙げたような自己決定と権利についてあらかじめかなりの関心を持っているような人たちは――実行上の様々な障壁の問題はさておき――理論上は容易にヴィーガンに転向することが出来るということになるはずである。
 とはいえもちろん、この第一のステップのハードルこそが最も高いというのは、自分の身を振り返ってもよくわかる*3。実のところ私自身の場合においてすら、いくつかの偶然的要素が重なってたまたまこのステップを踏み越える慣性が働いたにすぎないような気はしている。

*1:ちなみに菜食主義の標準的な倫理的教説は、私の理解した限りでは、このようにして人が何かを食べるときに生命を選別することが不可避であることを認めた上で「その境界線を人間と動物の間ではなく動物と植物の間におくべきだ」ということを主張している。

*2:「拒否している」という言い方が強すぎるようであれば、「多くの人にとって何かを食べるということはそもそも正当化を免れるような実践としてある」くらいに受け取って欲しい。

*3:このことは我々が普段何を食べるかを決めるということは特段の道徳的行為ではないと思わせるような様々な仕組みが機能していることによって可能になっているだろう。そうした個々の仕組みを特定することには個人的にはけっこう関心がある。

06/10/19-06/16/19

  • 中間テストとレポートの提出期限が重なったりしたので(質問などへの対応が集中し)どことなく落ち着かない感じで一週間を終える。
  • そういえば先週言及したESRCのWriting-Up Bursaryの概略を述べると、滞在中に向こうの研究者と議論をして、学術論文を一つともう少し幅広い人も読むopinion paperを一つ書き上げる、というものなんだけど(当然ながら事前にけっこう準備していかないと終わらないと思うけれど)、まあこういう仕組みにおいてopinion paperを要求するというあたりからもacademicなwritingとは何であるべきかというものについての考えは分岐していると思ったりした。
  • 今週の作業としては、基本的には某書評論文を執筆するために以下の著作及び関連論文などを読んでいた(パラ見を含む)。

目次

  • はじめに
  • 第1章 「軍事研究」前史――ダイナマイトから七三一部隊まで
    1. 欧米の科学者たち――戦争にどう向き合ったか
    2. 日本の科学者たち――軍事研究が当たり前の時代に
  • 第2章 冷戦がすすむなかで――大学が聖域になったとき
    1. 日本学術会議の声明
    2. 中谷宇吉郎が巻き起こした論争
    3. 科学者京都会議
    4. 東京大学で軍事研究か
  • 第3章 ベトナム戦争の時代――「平和の目的に限り」の定着
    1. 米軍資金をめぐる問題
    2. 物理学会の「決議三」
    3. 「平和の目的に限り」の定着
    4. ベトナム戦争アメリカの科学者たち
  • 第4章 新冷戦の時代――「平和の目的に限り」の裏で
    1. 「軍事」の拡大
    2. 第五回科学者京都会議
    3. 宇宙の軍事利用
    4. 大学人や研究者の声明・宣言
    5. 生物戦にかかわる研究か
  • 第5章 冷戦終結後――進みゆく「デュアルユース」
    1. 宇宙の開発利用と安全保障
    2. デュアルユースを梃子に
    3. 生命科学におけるデュアルユース
    4. 神経科学におけるデュアルユース
    5. 学術界の反応
  • 第6章 軍事研究の是非を問う――何をどこまで認めるか
    1. これまでをふりかえる
    2. 軍事研究はすべて否定されるべきか
    3. 歯止めをどうかけるか
    4. 科学技術の順調な発展のために
  • おわりに

 第一次世界大戦で科学者たちは毒ガス兵器という残忍な兵器を作り出した。第二次世界大戦ではさらに強大な核兵器までも作り出してしまった。こうした事態を反省して、第一次大戦後にはバーナルらが「もしすべての科学者が反対するならば、戦争は不可能であろう」と述べ、軍事研究に手を染めないよう科学者たちに訴えた。第二次世界大戦後には日本学術会議が「戦争を目的とする科学の研究には絶対に従わない」と宣言した。科学者や技術者は、「自分たちが兵器を作り出さない」ことで科学技術の軍事利用を防ごうとしたのである。
 しかし時代が進むにつれ、「自分たちが兵器を作り出さない」にもかかわらず、科学技術の成果が駆使され兵器の高度化が進んだ。理由の一つは、科学者・技術者の層がぐっと厚くなった結果、大学の研究者を中心とする「自分たち」の歯止め効果が大きく減少したことであろう。第五回科学者京都会議のあとに田中正が指摘したように、「軍事研究開発を支える人たちは壮大なピラミッドを構成」するようになったのである。また、民生分野の研究成果がのちに軍事分野に転用されたり、あるいはデュアルユースの科学技術が用いられたりして、「自分たちが兵器を作り出さない」にもかかわらず兵器の高度化が図られるようになった。
 こうしたことのため、「自分たちが兵器を作り出さない」という対応だけでは、戦争のために科学技術が利用されることを防ぐという、本来目指していた目標を達成できなくなっているのではなかろうか。軍事研究をしないと学術界が宣言し遵守するだけでは効力に限界があると思われるのだ。そこで考えられるのが、科学技術が戦争に「利用されないようにする」、つまり利用につながる箇所にも目を配るという方法である。アメリカでバイオテロを契機に設置されたNSABBは、まさにこうした役割を担うものの一例であろう(杉山 2016: 221-222)。

※ちなみにこの本を読んで、ベトナム戦争における自然科学者の軍事協力と言えば科学史家はまずJASONを思い浮かべるということを知った。私のように先にキャメロット計画のほうを学ぶというのは、ずいぶん非標準的な順番なのだろうと思った。

  • 黒崎輝, 2008,「核兵器との共存を模索する科学者――パグウォッシュ会議における最小限抑止論の受容と米国の科学者の役割,1955-1963年」 『アメリカ研究』42: 77-97.
  • 黒崎輝,2009,「日本における核抑止論批判の誕生――パグウォッシュ会議と日本の科学者、1954-1963年」『同時代史研究』2: 3-20.
  • 兵藤友博「杉山滋郎『「軍事研究の戦後史――科学者はどう向き合ってきたか」』書評」『科学史研究』57(285): 68-69.
  • 泊次郎「書評 軍事研究問題にどう向き合うのか」『UP』46(5): 54-59.

科学者と戦争 (岩波新書)

科学者と戦争 (岩波新書)

  • 来週の作業としてはまたもや締切を突破してしまっているこの某書評論文をなんとか終わらせたい。
    • 月曜日中に再読を終わらせ、火曜日中に日本語原案を提出し、その週のなかで英語化を行うというかたちで行こう。幸い火曜日が(学内行事の都合で)休講なのは好都合である。