Woolgar, S, Pawluch D., 1985, ”Ontological gerrymandering: The anatomy of social problems explanations”

書誌情報

Woolgar, S, Pawluch D., 1985, "Ontological gerrymandering: The anatomy of social problems explanations," Social Problems 32(2):214-27.(=平英美訳,2000,「オントロジカル・ゲリマンダリング―社会問題をめぐる説明の解剖学」平英美・中河伸俊篇『構築主義社会学世界思想社:18-45.)

目次

一 社会問題をめぐる議論の構造

二 オントロジカル・ゲリマンダリングの作業

三 経験的文献

四 児童虐待の事例

五 社会問題と逸脱の社会学

六 含意

七 結論

要約

  • [1]本稿で検討する社会問題についての議論[=いわゆる社会構築主義アプローチ]は,社会問題についての伝統的思考,すなわち[客観的な]状況や原因といった用語を用いて考えることからの決別し,むしろ状況は人びとの活動によって定義され構築されると考える.
    • 構築主義的立場に立つ諸論文は,行動や状態についての変わりゆく定義を分析し,それらの変化をそれに関与している個人や集団のクレイム申し立て活動という観点から説明しようとする.
    • 彼らはまずある社会状態を示し,その一方でそれと結びつく定義やクレイムの多様性を強調する.次に,どこにでもある社会的ー歴史的諸特性を持ち出して,定義の変動を説明する.
  • 最初の操作はさらに3つの指し手に分けられる.
    • 第一に,著者はある状態や行動を同定する.
    • 第二に,彼らは,この状態についてなされた様々な定義[ないしクレイム]を同定する.
    • 第三に,著者たちは定義に関係する状態の不変性とは反対に,定義の可変性を強調する.彼らは,状態は変わらないのだから,状態の定義の変動は,状態そのものよりもむしろ定義者がおかれた社会環境から生じるとほのめかす.
  • [2]このような説明の要となっているのは,状態そのものは変化しないという前提である.定義の変動についての説明は,状態に関するある「客観的な」言明に依拠しており,またいくつかの説明は,状態の「実際の変動」を前提にしてすらいる.
    • こうした説明様式を可能にしているのが,オントロジカル・ゲリマンダリングである構築主義的な説明の支持者は,問題であると理解されるべき前提と,そうでない前提との間に[恣意的な]境界線をもうけるのである.このバウンダリーワークによって,ある領域は存在論的に疑わしいものとされ,ある領域は疑わしくないものとされる.
  • 以下,様々な実例.児童虐待をめぐるステファン・フォールの論文など.
  • 本稿で提示した批判は,3つの方向に解釈することができる.
    • 第一に,これは社会問題を説明するのに成功したスタイルとして認められているものについての記述として.
    • 第二に,社会問題の議論の構造内にある深刻な非一貫性についての論証として.
    • 第三に,社会学的説明のかなり広い領域においてあてはまる特徴の析出として.
      • しばしば,社会生活のある側面について,事態は「異なっていたかもしれない」と言われる.しかし,そのあとに続く説明はこの指示に決して従わない.分析者の説明は,決して社会的に偶然的であったり,コンヴェンションの結果であったり,論理的必然性を欠いているとみなされることはない.相対主義の選択的な適用は,現象を社会的なものとして浮かび上がらせ,その一方で説明実践の社会的性格を否定するという重要な[←皮肉]機能を持っている.

コメント

  • 訳出されたのでカウントしても2000年か….10年も前ということとなると,ホットなトピックというよりも歴史的な関心から懐古される対象という性格のほうが強い論文だろう.
  • 最後にご丁寧にも三つのありうる解釈をあらかじめ述べてくれているのだが,あとに続く論争を眺めると,圧倒的に本論文は第二の性格を持つものとして解釈されたように思われる.つまり,[1]と[2]が矛盾を構成するのではないか,「客観的状態などない」として従来の社会学的説明を退けた一方で,構築主義自身も「社会状態の不変性」という客観的な社会状態を想定してしまっているのではないかという批判として.
    • しかしながら本当にそれが内的矛盾・非一貫性になるかどうかというのは,[1]のテーゼをどれだけ強力なものと解釈するかに依存するのであって,構築主義が客観性についてそれほど極端な懐疑主義の立場(「客観的社会状態などというものは一切ありえない」)に立たないとするのならば,[2]のようなマニューバーはむしろ,「なぜそのような操作が必要とされるのか」というさらなる解明の対象になるだけである.第一,第三の解釈やその後に続く部分は,むしろそのような方向性を示している.
    • しかしまあ,教科書的には構築主義批判の一つということでまとめてもいいか…(そんなかんじの仕事が降って来たので文献メモをうpしてみた).
  • 「本来は因果的説明を挿入する必要がない所に,それが必要であるかのような場所をつくる」という指し手(move)を批判するという姿勢は,エスノメソドロジーの論者たちに共通しているものだと思うのだが,同じくエスノメソドロジストであるマイケル・リンチのある論文では,オントロジカル・ゲリマンダリングへの扱いはきわめて冷淡なものだった記憶がある.その冷淡さの理由についてもうちょっと考えてみてもいいかもしれない.
  • ところでこういう議論ってなんで「存在論的」って呼ばれるのか?別に「認識論的」というラベルでもほとんど同じ議論が展開できる気がするぞ.

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