Bogen, David and Michael Lynch, 1993, ”Do we need a general theory of social problems?”
- Bogen, David and Michael Lynch, 1993, "Do we need a general theory of social problems?" James A. Holstein and Gale Miller ed., Reconsidering Social Constructionism: Debates in Social Problems Theory, pp.213-237.

Reconsidering Social Constructionism: Social Problems and Social Issues
- 作者: Gale Miller
- 出版社/メーカー: Routledge
- 発売日: 1993/05/01
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Reconsidering Social Constructionism: Debates in Social Problems Theory
- 作者: Gale Miller
- 出版社/メーカー: Routledge
- 発売日: 2006/10/01
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目次
コメント
- 長いので構築主義批判のとこだけ整理して取り出すと以下のような感じだろうか.
- [0]「まず理論の場所をつくる」というのがイバラとキツセの「社会問題言語ゲーム」の模範的な一手である.彼らはこれによって行為者の日常的理解を哲学的実在論とみなし,対照的に分析者の分析的視点をその優位におく.後者は前者の用いる概念によって汚染されてはならないと考える.
- [3]こうした問題のある帰結を招くのだから,[0]という前提がそもそもおかしい.様々なものを含む「日常的態度」を,首尾一貫した哲学的態度であるとみなすことをやめればよい.かわりに日常的態度とはそうしたすべてが含まれる言語ゲームだと考えるべきだ.
- [4]日常生活の言語ゲームにおいて,社会問題としてのステータスそれ自体は普通問題化(thematize)されているわけではない.キツセとイバラの方針(クレイムの真理/道徳性を括弧に入れる)は,確かにある状態カテゴリそのものが争われているケース(=真理/道徳性が問題となっている)は扱えるがそれだけである.
- [5]以上のような議論から見て,構築主義の一般的なフレームワークのようなものを作り上げることは望みうすであることが分かる.(すくなくとも[0]の前提に立つ一般理論化の試みは失敗する)
- この批判はかなり正鵠を射ているのではないか.構築主義系の論文によくでてくる(orかつてはよく見られた)「人々は自明のものと思っているが,実は…」とか「人々が持っている素朴実在論を前提とせず…」という言い回しを何気なくするときに,まさにこのような「日常的理解の哲学理論化」が行われてしまっているのだが,それ本当に調べたの?という疑問を持ちたくなることは多々ありますね.
- 途中デリダとレヴィ=ストロースが出てくるあたりで議論が込み入ってくるのだが,日常的視点と哲学的視点,あるいは対象となる社会的秩序をリソースとみなす視点とそれ自体をトピックとみなす視点の区別自体はEMにもあるのだという.したがって,この区別をすること自体が問題とされているわけではない.
- 個人的に気になったところの引用.
これと同じように,人はチェスのゲームにおいてプレイヤーが「ボードゲームをプレイしている」と述べることが出来るし,また全てのボードゲームが典型的に共通して持っているものは何かについて抽象的な思索を展開することもできるだろう.しかし,チェスにおける特定の指し手が,ボードゲームにおける指し手であると述べるのは奇妙である.[p.228]