Lynch, Michael, 1993, Scientific Practice and Ordinary Action (1)

Scientific Practice and Ordinary Action: Ethnomethodology and Social Studies of Science
 
  • Lynch, Michael, 1993, Scientific Practice and Ordinary Action, Cambridge University Press: 159-201, Ch.5 Wittgenstein, rules, and epistemology's topics

目次

  • Wittgenstein and rule skepticism
  • Formulation and practical actions
  • From sociology to praxiology of mathematics

要約

Wittgenstein and rule skepticism(159-177)

  • ある解釈者たちは、秩序づけられた行為はルールによってではなく、解釈的循環を迂回する社会慣習と習得された傾向性によって決定されるのだとウィトゲンシュタインが述べたのだと読む。
  • また別の解釈者たちは、ルールは実践的振る舞いから分離できないのであり、彼の書いたものは社会学的、慣習的、あるいはそれらに関連した説明に支持を与えていないと解釈する[前者=科学知識社会学v.s後者=エスノメソドロジー]。
  • 例えば、(前者の好例である)クリプキ(Kripke 1984)による『哲学探究』§143-242の解釈は以下の通り。ウィトゲンシュタインはまず行為はルールによっては決定しえない(underdetemined)であるという懐疑的テーゼを受け入れた後、いかにして秩序だった行為が可能なのかという問題に対する社会構築主義的な解を与えたことにされる。
  • 有名な算術の例
  • このパラドクスは、ルールの把握が解釈、すなわち「ルールの意味についての私的な(共同体における規則的な実践から切り離された)判断」に根拠づけられているという仮定に基づいている。ウィトゲンシュタインは「我々の共通の行動がルールが表現され理解される文脈を提供するのだ」と付け加えることで、そのような「解釈」の可能性に反論する。
    • 問題は、そのような文脈の提供はなぜ、どのようにして可能なのかということ。
    • 例を示すこと、導くこと、同意を表現すること、練習すること、あるいは脅しによってそれは可能となる。
    • 我々がルールに調和(in accord with)した行動をとれる理由は、形式数学に内在的ではなく、我々の生活形式そのものゆえである[168]。我々の実践を規定するのは、ルール単独ではなく、ルールにあるやり方で従うための社会慣習である。そして社会慣習だけではなく、自然的傾向性もまたその規定要因の一つ。
  • だが、シャンカーは、ウィトゲンシュタインの議論の目的が、ルールの懐疑的議論の理解不可能性[uniteligibility]を示すことにあったのに、クリプキはそれを見逃したと批判。
  • シャンカーが再構成したように、ウィトゲンシュタインの算術の例は、ルールに従うことの疑似因果的説明のバカバカしさを示すことにあった。ウィトゲンシュタイン決定論的描像を、ルールに従うことの実践的根拠を強調する議論に置き換えたのだ。
  • 議論はここから懐疑的読解と分岐する。
    • 懐疑論者は、帰謬法に従って[ルールの抽象的実体が行為を導くという]疑似因果的描像を廃棄するところまではたどり着く。しかし、彼らはルールが行為についての不十分な説明しか提供しないと結論づけてしまう。この結論こそが、社会学的説明を動機付ける。つまり、社会慣習と利害が、合理的衝動が退位した空白を埋めることとなるのである。
  • 懐疑論者の戦略における重要な一手が、ルールの定式をルールがその拡張を定式化する実践から切り離してしまうことである[171]。ひとたびルールの言明がルールを新しい事例へ拡張する実践から切り離されてしまうと、両者の関係性が問題的になる。そしてその非決定性が社会慣習などの外的要因によって埋められるというのがブルアら懐疑論者の論法。
  • 懐疑論者の解とは対照的に、シャンカーは「帰謬法の目的はルールに従う実践の確からしさや理解可能性を疑うことではない」とする。懐疑的パラドクスからの脱出は、反実在論的認識論ではなく、文法の吟味によって可能となる。ウィトゲンシュタイン懐疑論的パラドクスに答えるのではなく、問いそのものを解消することを選択する。
  • イカーとハッカーは同様にクリプキ的なウィトゲンシュタイン解釈に反論。「算術の手順は算術の公式によって決定されているのではないのか?」という問いはすでに誤りを含む。つまり、ルールとその適用[外延extension]の独立性を、あたかもルールがそれに調和する行為にとって外的であるかのように前提しているのだ[173]。
  • 懐疑的解釈は、ルールに従うことの疑似因果的描像を保持している。なぜなら、それはルールに従う実践を超えた/の下にある説明要因[=因果的要因]を探究することを廃棄しないから。「ルールはいかにしてその適用を決定するのか」という問いは、「コインの表面はいかにしてコインの裏面を決定するのか」という問いと同様、意味をなさない[なぜなら、AとBの関係は因果関係ではなく、構成的関係だから]。
    • この点をより明確化するために、ウィトゲンシュタインの草稿とノーマン・マルコムの議論を見よう。マルコムが述べるように、「ルールは静かな同意の状況以外では何も規定しない」。そのような調和した行為なしにルールが分離されると、ルールを表現する言語は重さを、生命を失う。
    • ルールの言明[ルールを述べること]はルールの理解可能性を支える実践的活動を構成する一部分であり、最も精巧なバージョンの「裸の」言明であっても、そうした活動を含んだり決定したりすることはできない[173]。
  • こうしたベイカーとハッカーの議論は、以下の二つのような外部主義externalismのいずれもを拒否している。
    • [1]数学の超越論的対象が数学者の実践を決定しているというプラトニズム的立場
    • [2]何か別のもの(共同体の規範であれ個人の傾向性であれ)がルールと行動の間の関係を説明するという懐疑主義的立場
  • この[2]はまさにブルアの立場である。ブルアは生徒の特異な理解と教師の伝統的なルールの扱い方を対称的な関係におき、両者がともにルールと可能な実践の間の競合する内的関係を提示しているとする。この膠着を打ち破るのがコンセンサスだというのだ。
    • こうした説明が全くおかしいわけではない。例えばブルアは以下のように考えるだろう。
      • ある子供が「1,2,3,4…」と数列を数えている。彼は大人に「逆に数えてごらん」という指示を受ける。すると彼は後ろ向きになって「1,2,3,4…」と数え出す。(ブルアの勧めに従って)我々は「逆に数える」という指示がindexicalであり、それが用いられる実践に依存していると考えることにしよう。子供は指示を「誤解」して「逆向きになれる?」というような問いにリンクさせて理解してしまったのである。しかし、この言明に内在的な何ものも正しい解釈を[一意に]指示しない。そしてこの膠着状態は、子供が笑われたり、訂正されたり、例を示されることによって解消される[のだとされる]。
    • この説明の問題は、子供がもし逆向きに数える指示を「系統的に誤解」しているのだとしたら、[そもそも]彼はその指示のレリヴァントな(使)用法を示したのではなくなるということである。彼がやってみせたのは、我々が逆向きに数えることと呼んでいるテクニックではない。生徒の行動が大人の指示によって引き合いに出される実践に対する有効な代替案を確率していない限り、そこには「競合する内的関係」の膠着状態は存在しない。
  • イカーとハッカーがルールと算術の実践の「内的」関係について語るとき、彼らはルールの表現と算術のテクニックとの間の文法的関係について語っているのである[そしてこの文法的関係は私的なものではなく公共的なもの]。
  • ウィトゲンシュタインの示した例からは、生徒の誤解を「正しく数を数えること」と等しい理論的根拠を持つものとして据えることが出来るとは読み取れない。この世界において「系統的な誤解」にそのような根拠を持たせるためには、記述に用いられたそもそもの用語を改訂しなくてはならなくなる。
  • ブルアの数列の例の引用の仕方は、内的関係を恐ろしく個人主義的なやり方で表現しており、生徒があたかも彼自身の算術の理解の仕方を所有しており、それが教師の理解と競合するものであるかのようになっている。そこにおいて「同意」がそのような膠着を打ち破る要因となる。
    • ウィトゲンシュタインは確かに「静かな同意」について語っているが、これは完全に、かつ遍在的に社会秩序の一部になっており、明確な説明要因としての生命は持たない。コンセンサスを同定することは、因果的要因を取り出すことではない。