Shanker, S. G., 1987, Wittgenstein and the Turning-Point in the Philosophy of Mathematics

Wittgenstein and the Turning Point in the Philosophy of Mathematics
 
  • Shanker, S. G., 1987, Wittgenstein and the Turning-Point in the Philosophy of Mathematics, State University of New York Press: 13-25.

議論の構造

ウィトゲンシュタイン解釈について

  • クリプキの『ウィトゲンシュタインのパラドクス』は、ウィトゲンシュタインの真の動機はルールに従うことの不可能性を示したことにあるのだ、と解釈する。
    • だが,クリプキはこのパッセージがここで展開されている背理法の結論部分にあたるのだということを考慮していない[14]。
  • [むしろ、]ウィトゲンシュタインが数を数えることを教わる生徒の例を用いるのは、意味実体的な意味把握――すなわち語の外延extensionと使用を支え決定する「意味実体」のようなものが存在するという考え――を攻撃するためである[16]。
  • この(意味実体的な)概念化は次の誤りを犯している。ルールも関数も、あたかもそれ自身がそうするようにみずからのinstantiation例を決定しているのではない。我々こそがルールに従うことや関数を計算することを構成するのは何かを決定している[17]。
    • 我々が数列を「1002,1004,1006…」と続けるのは、これそのものが「2を加える」ことの基準だからだ。ルールを理解することとは、ルールとその適用の関係が内的なものであるという事実を把握することである[17]。ルールはその適用を機械的に決定しているのではなく、我々がルールを範例(paradigm)として使用するという実践において、何をルールに同調するということとしてカウントすべきかを決定しているのだ[17-8]。
  • クリプキは「我々はルールに盲目的に従っている」という結論を導く。しかし、あるルールの解釈が無限にありうるということは、何をやってもルールを従うことになるということを導かない。ウィトゲンシュタインが示しているのは、解釈ではないルールの把握の仕方があるということなのだ。それは、実際のケースにおいて、「ルールに従っている」「ルールに反している」と我々が述べることのうちに示されている(『哲学探究』§201)。このパッセージは懐疑主義的な読解においては全く無視されている[19]。

②共同体説について

  • [以上のウィトゲンシュタイン解釈をめぐる論点が正しかったとして]クリプキの議論は「ルールに従うことは共同体に依存的である」という主張においては正しかったということになるだろうか?
    • クリプキはある人がルールを適用するときに,それが正しい反応なのは、まさにこれが彼がそうする傾向性を持っているような反応だからと論じてしまう。
    • しかし、傾向性は私がある表現を知っているということを全く正当化してくれない[23]。クリプキが「共有された傾向性」からいかにしてルールに従うことの規範性や誰かが概念を習得したと知ることの確実性を救い出すのかは全く明らかではない。

③加法の例について

  • クリプキの挙げた整数の加法の例について考える。「彼がルールをマスターした」と我々が言う基準を満たすためには,彼はルールを正しく適用できたり、きちんと説明が出来たりetc.といったことが出来る必要がある(これはそうした我々の判断が破棄できない・取り消せない[indefeasible]ということを意味しない)。
  • 生徒が(ウィトゲンシュタインの加法の例において)57以降,内的に一貫した間違いをおかすとする。これは彼が決してルールをマスターしなかったということを意味するか?
  • 我々がこの問いに対して何と答えるかは,我々が与えるより正確な詳細に依存する[24]。我々は「彼はルールを全く理解していない」というかもしれないし、「彼は57までは加法のやり方を知っている」というかもしれない。ここで重要なのは,我々が[その実践の詳細を見た際に?]何と言う権限を持っているかであって、彼がその[加法の]概念を理解したかどうかを決定するような世界の中にある事実を発見できるかということではない[25]。
  • この問題は、「哲学的問題の源は我々が問われる疑問そのものの形式のなかに存在しており、啓蒙への道は我々の視点に再び注意を払うことのなかにある」というウィトゲンシュタインの主張を良く示している。
    • ある概念を把握する・マスターするとはいかなることかを説明するという試みは、それが「理解することを特徴付けるのは何か[その本質は何か]?」という問いとして,しかも疑似心理学的な問いとしてではなく、我々が「理解」ということで何を意味しているのかを解明するための問いとして解釈されたときに初めて解かれるのだ。

コメント

It is because he approaches the question of 'clarifying what the "mastery" of a concept consists' in terms of discovering the 'fact' that would license such a judgement that Kripke finds himself desperately trying to escape from the 'sceptical dilemma' he has constructed for himself[p.25].

クリプキが彼自身が作り出した「懐疑的ジレンマ」から絶望的な努力によって抜け出そうとする羽目に陥るのは、そのような判断[=「彼は確かにある概念をマスターしている」]を保証するような「事実」を発見するという視角から「概念の『習熟』とは何か」という問題にアプローチしているからにすぎない。

この英文のクオートの使い方とかthat節の使い方が複雑すぎて悶絶したので記念に残しておく。しかしここで言っていることはずいぶん真っ当というか、ルールに従うことについての懐疑主義的ジレンマと呼ばれるものが醸し出す圧倒的な自作自演感というのはなんなんだろう。