Solovey, Mark, 2001, ”Project Camelot and the 1960s Epistemological Revolution”

  • Solovey, Mark, 2001, "Project Camelot and the 1960s Epistemological Revolution: Rethinking the Politics-Patronage-Social Science Nexus," Social Studies of Science 31(2): 171-206.

http://sss.sagepub.com/content/31/2/171


目次

  • 第二次大戦終結直後における軍の援助と科学的正統性の追求
  • 政治的な表舞台へ向かって:キャメロット計画の構想
  • 暴かれる政治-資金援助-社会科学間の関係
  • 社会科学というプロジェクトにとってのより大きな帰結:資金援助・イデオロギー・価値中立性
  • 結論
  • Appendix

内容

  • キャメロット計画とは、1960年代に軍によって資金援助を受けて始まったアメリカの社会科学的研究プロジェクトだったが、国内外の批判を受けて頓挫した。本稿はこの計画をめぐる政治的論争こそが1960年代に始まった「認識革命(ピーター・ノヴィック)」の大きな原動力となったということを論じる。本稿の論点は以下の三つである。
    • 第一に、1960年代に始まった支配的な社会科学観への挑戦は(ノヴィックが主張したように)学問内部の論争からではなくキャメロット計画の挫折という極めて政治的な論争がきっかけとなって始まったということ。
    • 第二に、この論争によって、人々は冷戦のポリティクスがアメリカの社会科学を形作るということに注意を向けるようになったということ。
    • 第三に、キャメロット計画の始動期において政治-資金援助-社会科学の関係への批判的反省が、「客観的で価値中立的」なものとしての社会科学という当時の支配的な理解への抵抗を生み出していったということ(171-173)。
  • 第二次世界大戦終結直後、アメリカの社会科学は自然科学(特にレーダーと原子爆弾という形で戦争に貢献した物理科学)の成果を尻目に、自らの科学的正統性と政治的有効性をどのように訴えるかという問題に直面していた。
    • 設立されたばかりのアメリカ国立科学協会(National Science Foundation: NSF)の指導者を占めた自然科学者たちは社会科学への懐疑的姿勢を崩していなかった。
    • 1940年代にはすでに軍委託研究の中心となっていた海軍研究局(Office of Naval Research: ONR)は、心理学以外の社会科学を全く援助していなかった。
  • こうした状況においては、軍と友好な関係を築くことが社会科学にとっての重要な戦略となった。
  • このような軍事科学研究を進めるにおいて重要だったのは、自らの物理科学への志向を積極的に示すということであった。大統領科学諮問委員会(President's Science Advisory Committee: PSAC)の1962の声明も、物理学と生物学と同じ手法を用いることによって「行動科学」は進歩を遂げつつあるのだと述べていた
    • この「行動科学」という概念は、1950年代以来のフォード財団による「行動科学プログラム」に由来するものであり、社会主義との混同という誤解を嫌った社会科学者たちによってしばしば用いられた。また、歴史的・質的ではなく量的・数学的な分析への選好も、自らを自然科学になぞらえようと試みた社会科学者たちの戦略の一部として理解できる。
  • こうした状況において、学問の客観性や自律性の問題は無傷のままであったように見えた。1940年代から50年代にかけては、歴史家、哲学者、科学社会学者たちでさえ、科学と政治、研究と改革、学問とイデオロギーは単純に区別できると考えていた(173-179)。
  • ケネディとジョンソンの民主党政権期においてアメリカの社会科学がおかれた状況は劇的に改善された。両政権は心理学、社会学、政治科学、人類学、経済学の研究者をアドバイザーとして重用した。この政権の下で、1960年から1966年の間に国防総省の対反乱(counter insugency)研究のための研究費は1,000万ドルから1億6,000万ドルへと拡大し、このうち600万ドルが社会科学のために用いられた。
  • 1964年に国防総省の防衛研究・防衛工学ディレクターが防衛科学会議(Defense Science Board)に対して「小規模紛争の原因」についての学際的研究を進めるよう求めたのをきっかけとして、キャメロット計画は始動した。キャメロット計画の具体的な構想は特別オペレーションズリサーチ局(Special Operations Research Office: SORO)の手に委ねられた。SOROは軍によって支援された、半独立的な研究機構であり、1956年にアメリカン大学に設立された。
  • SOROはキャメロット計画の目的を以下の三つとした:(1)内戦につながる可能性を分析する手続きを確立すること(2)内戦につながる可能性を高めてしまうような状況を改善するために政府が取れる行動を同定すること(3)上記の二つを行うのに必要な情報を入手し利用するためのシステムの特徴とは何かを特定する可能性を検討すること。具体的な研究は南米(ボリビア、コロンビア、キューバ他)、中東(イラン)、アジア(韓国、インドネシア、マレーシア他)、ヨーロッパ(フランスとギリシャ)各国を対象に行われる計画だった。
  • キャメロット計画は当時の優れた研究者たちにとっても魅力的なものだった。それは社会全体を理解するための社会システムモデルの構築や、国家の形成過程について研究する機会を様々な領域の社会科学者たちに与えようとした。また、軍の側もこの計画を単なる応用研究として位置づけるのではなく、基礎研究であると説明した。この計画は機密指定されることもなかった(179-183)。
  • 1965年にアメリカはベトナム戦争への関与をより実質的なものとし、その結果、国防国家とアカデミアの関係についての議論は、国際社会におけるアメリカ社会の位置づけというより広い文脈に含まれることになった。この流れの中で、キャメロット計画は国家による社会科学の濫用が問題となる最初の焦点となった。
    • キャメロット計画が始動する前から、主流の社会科学に対する異議申し立ては学問内部でなされつつあった。キャメロット計画は、このような学術的議論を、国全体を巻き込んだ政治的議論へと変容させた。
  • 論争はチリから始まった。ピッツバーグ大学の人類学者ヒューゴー・ヌティーニは、キャメロット計画に参加する学者をリクルートするためにチリを訪れたが、計画に誘われた学者はこの計画が本質的に政治的なものであり、チリの主権を脅かしかねないという危惧を抱いた。ドミニカにアメリカ軍が進駐した直後であったこともあり、この問題はチリのアカデミアと政治を巻き込んだ大きな反響を呼んだ。
  • チリ政府や共産圏のメディアからの批判を受けて、1965年の7月にキャメロット計画は撤回された。アメリカの議会においてもこの問題を事後的に調査する小委員会が開かれたが、(すでに述べたように当時のアメリカにおいて)軍に支援された社会科学に対する視線は好ましいものであったため、ここでの議論は当初海外とは異なるトーンを持っていた。委員会の最終レポートは、アメリカの政策を実行するために社会科学を利用することを強く支持するものであった。委員会が開催した公聴会の議事録のシリーズは「冷戦に勝利する:アメリカのイデオロギ―上の攻勢」と名付けられ、そのうちの一巻は「行動科学と国家安全保障」というものだった。
  • しかし、ベトナムの泥沼が深刻化するにつれ、キャメロット計画の持つイデオロギ―的特性は批判を浴びるようになった。ウィリアム・フルブライトは、計画が他国の革命勢力がアメリカにとって不利益をなすこと・現行政権の保持が望ましいことが前提とされていると批判した。
  • 国防総省やSOROがキャメロット計画を「客観的」で「価値中立的」な試みであると説明していたことも、逆に批判者たちの不信を買った社会学者のアーヴィング・ホロウィッツは、計画に参与した社会科学者たちがそれと気づくことなくエスタブリッシュメント層の価値を前提としてしまっているのだと考え、同じく社会学者のハーバート・ブルーマーは、社会の安定性を前提することなくいかにして反乱が遂行されるか(etc.)を研究する道がありうると論じた。言語学者のノーアム・チョムスキーも反乱研究の反革命を前提した立場と学問の自律性のなさを批判した。
  • こうした批判を受けて、政府は国内外からの批判を招かないように研究を支援する新しい査読システムとセキュリティチェックの構築を急いだ(183-192)。
  • キャメロット計画の挫折が残した遺産は三つの観点からまとめられる。すなわち、研究支援、イデオロギ―、価値中立性の観点である。
    • (1)研究支援:キャメロット計画が中止された後の1966年、フレッド・ハリス上院議員による小委員会が海外における社会調査をいかに支援するかを討議した。この委員会の結論は、1965年の小委員会とは異なり、社会科学の過度の軍事化(overmilitarization)が進んでいるという危惧が広く共有されていることを認めた。
    • 人々は社会科学の自律性を損なうことなくそれを連邦が支援する手段が必要ではないかと考えた。ハリスは国立社会科学協会(National Social Science Foundation)の構想を抱いていたが、これは実現しなかった。
    • (2)イデオロギ―:キャメロット計画は社会科学とイデオロギ―の問題を重要な問題として押し上げた。イデオロギ―の問題は第二次世界大戦後の社会科学においては単に抹消されてきた。しかし、キャメロット計画の批判者たちは、客観的で価値中立的なはずの諸研究が、合衆国の現状を理想化するような価値に負荷されていることを明らかにした。
      • こうした当時の主流社会科学に対する攻撃は、機能主義と社会システム理論を取り込んだ多くの研究にも向けられた。タルコット・パーソンズは社会の諸要素やサブシステムの相互作用を予測し理解するための体系を作り出したが、こうした理論は諸要素の分裂よりも統合過程を強調するものだった。キャメロット計画は、こうした考えを利用し、社会の安定性はいかにして可能かを研究しようと試みた。
    • (3)価値中立性:キャメロット計画の挫折は、第二次大戦直後の社会科学が標榜していた価値中立性を強く疑わせるきっかけとなった(192-197)。
  • 結論:第二次世界大戦終結直後において、軍による研究支援は社会科学者たちの科学的正統性の確保のための戦いを大きく助けるように見えた。しかし、キャメロット計画の失敗は、政治-研究支援-社会科学間の密接な関係が科学とイデオロギ―の分離という当時の支配的な考え方を切り崩すという暗い結論を帰結した。
    • キャメロット計画は、専門家の導きによって社会変革を管理し革命を抑圧することでアメリカの利益になるような不公正な世界秩序を保持することを助けようとした。社会科学者は不偏的で客観的な科学者ではなく権力の下僕に過ぎなかったことが観て取られてしまったのである。
  • 当時の主流の科学への懐疑と挑戦は、確かに純粋にアカデミックな領域においても起こっていた。しかし、このキャメロット計画をめぐる論争こそが、それを一般公衆にも開かれたものとし、重要なターニングポイントとなったのである(197-198)。
  • Appendix(キャメロット計画への助言者のリスト・以下では目についた人のみピックアップ)
    • James S. Coleman, Johns Hopkins University, Sociology
    • Lewis Coser, Brandeis University, Sociology
    • William Kornhauser, UC Berkeley, Sociology
    • Thomas C. Schelling, Harvard University, Economics/Political Science
    • Gilbert Shapiro, Boston College, Sociology

コメント

  • 1960年代の機能主義への信頼の失墜と複数パラダイム化という話は、学部の社会学史の授業でもやるものの、なんとなく1960年代のベトナム反戦運動の高まりや大学紛争などの社会的背景と結びつけて説明されるか、あるいはそれこそノヴィックのように厳密に学説間の批判的乗り越えの試みという形で教わったため、キャメロット計画をめぐる政治的論争とその挫折という具体的な結節点があったのではないかという話は大変面白かった。
    • それに関連して、実はなぜタルコット・パーソンズに対してしばしば(彼の学説に必ずしも内在的論点でないにも関わらず)「決定論的・保守主義的理論」というレッテル貼りがなされてきたのかということが年来気になっていたのだが、この論文を読むとそうした批判者たちの直接のターゲットはパーソンズの理論そのものではなく、そのキャメロット計画における利用のされ方だったのではないかという気がしてきた。実際、上でまとめたようにブルーマーやホロウィッツはキャメロット論争に直接参加していたようだ。
    • ただし、これをちゃんと言うためには「キャメロット計画がパーソンズの考えを利用していた」というところをもうちょっと突っ込んで調べる必要があるように思われる。もし、そういう角度からのパーソンズ学説研究があったら教えてください(>識者)。
  • キャメロット計画についてはほとんど知らなかったのだけれども、テロリズム研究との関連という視点から言うと一応Stampnitzky(2013)の第三章に記述はあった。ベトナム戦争の失敗と並んで、counterinsurgency studies/policy(対反乱研究/政策)というプロジェクトが、1972年までになぜcounterterrorism studies/policyというラベルに付け変わったのかということの大きな要因として扱われているようだ。

追記

twitter上での補足的議論をまとめてくれた方がいましたので紹介します。

60年代の論争において客観性や価値中立性が批判されたのは、軍研究プログラムがそれを標榜していたから - togetterまとめ