06/17/19-06/23/19

 先週分の日記に書いた通り、休講でできた時間を使って引き続き書評論文の執筆に取り組むも不調に終わる。それとは別に木曜日にレポートを28人分まずは形式的なところだけチェックして返却した。形式的なチェックだけならそれほどの負担でもないですね。

 ところで最近身の回りの人と話したり、Twitterの議論を追いかけたりしていて、「他のものの権利を勝手に代弁してはならない」とか「命の選別を行ってはならない」というような、人間に関して適用するならば極めて真っ当な倫理規範を信奉する(尊敬すべき)人たちが、なぜかそうした倫理を掲げることで菜食を批判することがあるのはなぜなのだろうかということについてちょっと考えていた。確かにヴィーガンは動物の権利を勝手に代弁しているように見えるし、また「植物を食べることはよいけれど動物を食べることはよくない」という形で命の選別を行っているように見える、というのはわからないでもない。
 しかしながら、よくよく考えてみるならば「他のものの権利を勝手に代弁してはならない」という規範は「権利について語る手段を持たないものの権利については一切考慮しなくてよい」ということを含意していないし、また後者の「命の選別を行ってはならない」という規範に関しては、非菜食者が動物を食べるときであっても、人間を相手には決してしないようなことを動物に対してもよいと前提することによってはじめてそうしたことは可能になっているということを思い返すならば、厳密には守ることが不可能な規範であると言える*1。したがって、非菜食者がしばしば言及するこれらの二つの規範は、実は「動物を食べる」ことと無関係であるか、さもなくばまさに「動物を食べること」と抵触するような規範であったりするのである。

 そのように考えると(以下は飛躍を含んだ想像だが)こうした二つの規範を挙げる人たちは、実は何らかの規範的原理を挙げることで動物を食べることを正当化しているというよりも――というのはもしもそうだとするならば以上に述べたようにそうした議論はいずれもあまりにも容易に反駁できてしまうように見えるので――むしろ何かを食べるということを道徳的反省の下に捉えるということそのものを拒否しているのではないかと最近は考えるようになった*2
 そしてもしもそうであるとするならば①食べることそのものを道徳的行為として捉える②その時我々が用いることになる規範は人種差別・性差別・障害者の権利・中絶といった様々なトピックにおいて我々が依拠している規範と(議論の持って行き方にいくつかのやり方があるにせよ)かなり広範な一致を示していることを知る、という二つのステップを踏みさえすれば、特に上で挙げたような自己決定と権利についてあらかじめかなりの関心を持っているような人たちは――実行上の様々な障壁の問題はさておき――理論上は容易にヴィーガンに転向することが出来るということになるはずである。
 とはいえもちろん、この第一のステップのハードルこそが最も高いというのは、自分の身を振り返ってもよくわかる*3。実のところ私自身の場合においてすら、いくつかの偶然的要素が重なってたまたまこのステップを踏み越える慣性が働いたにすぎないような気はしている。

*1:ちなみに菜食主義の標準的な倫理的教説は、私の理解した限りでは、このようにして人が何かを食べるときに生命を選別することが不可避であることを認めた上で「その境界線を人間と動物の間ではなく動物と植物の間におくべきだ」ということを主張している。

*2:「拒否している」という言い方が強すぎるようであれば、「多くの人にとって何かを食べるということはそもそも正当化を免れるような実践としてある」くらいに受け取って欲しい。

*3:このことは我々が普段何を食べるかを決めるということは特段の道徳的行為ではないと思わせるような様々な仕組みが機能していることによって可能になっているだろう。そうした個々の仕組みを特定することには個人的にはけっこう関心がある。