04/13/20(月)

朝からこのエセーを読んでアメリカにおいてユダヤ人であるということはどういう意味をもっているのかということについて考える。時には「パスする」という言葉自体に懸けられた重みというものがどのようなマイノリティであるかによって違うのだから、実は軽々しく言えないという点には、このエセーを読んで改めて気づかされる。

ところで私が英文科に所属していた学部生の頃に柴田元幸から聞いたことだと思うのだが、アメリカ文学史的には第二次世界大戦後くらいにユダヤ系の人々が改めて声を持った時期というのがあって、柴田元幸自身ももともとそのへんの研究から出発したはずである(バーナード・マラマッドとか)。社会学の院に進学したあと、一度だけ彼とは文学部のある棟のエレベーターに乗り合わせたことがある。自分が学部生だった頃は、好きだったり尊敬していたりする教員とは逆に上手く話せなかったなということを思い出す。

職場のオンライン会議に二時間ほど出席したところ、急遽来週に自分も自己紹介代わりの発表をやることになる。それを契機としてというわけではないが、ようやくデスク周りにたまったゴミを片づけて、前日買ってきた豆を挽いてコーヒーを淹れて飲んだ。いつも使っていた計量スプーンがまだ荷ほどきできていないため、勘に頼ったところめちゃくちゃ薄くつくってしまい――味覚障害もコロナウィルスの一症状だと報道されているので――若干焦ったりした。ずっとのびのびになっていた、エディンバラの研究者たちと進めている共著論文プロジェクトに関するメールの返信を書こうかと思い、ある程度作業を進めたが、最後には力尽きて寝た。